ステンドグラスの歴史研究家 田辺千代 Study  [研究レポート]  

ステンドグラスの歴史研究家 田辺千代

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郷土神奈川第42号論文
日本のステンドグラス史
神奈川のステンドグラス

小田原史談  第193号   2003年(平成15年)3月
小田原駅のステンドグラスなど

神奈川新聞 ぽぷり欄
ステンドグラス記事抜粋
 
<論文>

「日本のステンドグラス史
 神奈川のステンドグラス」

田辺千代

「郷土神奈川 第42号」 22〜41ページ
 神奈川県立図書館 平成16年3月発行 

 
 
第二章 成熟期のステンドグラス (1911〜1930)
◎天窓に虹をかけた芸術家小川三知
小川三知のアメリカ留学 横浜港からシカゴへ

明治33年(1900)7月6日、大きな夢を抱いて三知は、単身で太平洋をこえ、シカゴを目指してアメリカ大陸に渡った。カナダ汽船エムインヂア号の下等船客のひとりとして中国人労働者、朝鮮人労働者の中に混じり暗い船底で苦しい体験をする。「ここはまるで東京下谷の万年町だ」と驚きながらも、自分の居場所を凌ぎやすいように工夫をこらし、五感を集中させて聴き慣れぬ言葉を拾ってはノートに記録してゆく。三知の方から果敢に話しかけたりもしている。波穏やかな月の美しい晩には漢詩を朗誦し、怪訝な顔をする中国人に紙に書いて見せ身振り手振りで「あなたの国の詩です。どうかあなたの国の言葉で朗諭してみてください」とたのみこんで、音読訳する傍から書き取ったりもしている。

『七月十二日 曇り。午前十時、健康診断を行なう。時に風、順にして帆を挙げ、舟行極めて穏やかなり。殆んど動揺を覚えず。午後にいたりて快晴。一時両便を行なう。二十銭パン、十銭バターを求む。此の日、隣の唐人より菓子パンを恵ぐまる。宝丹を贈りて之を謝す。夜、月光晴明。「元二の安西に使いするを送る」 王維

ウイシンジウイー・ジャ−キンロー
渭城朝雨潤軽塵 (渭城の朝雨軽塵を潤す)

ハクシャテンチンシュウヒキサン
客舎音青柳色新 (客舎音青柳色新たなり)

ヒンクヮンカンザンヤーフィチャク
勧君更尽一杯酒 (君に勧む更に尽せ一杯の酒)

サイターヤンクヮンムグカン
西出陽関無故人 (西のかた陽関を出ずれば故人無からん)

                          (船中日記より)』

三知はどんな境遇にあっても、おもしろさを見つけ自分のものにしてしまう叡智を身の内にそなえた人であった。船中11日、車中4日間の長旅を終えシカゴ大停車場に着いたのは明治44年7月22日午前9時20分。
筆者も平成14年7月サンフランシスコからアムトラックに乗りシカゴまで三知の足跡を追う旅をした。階段の上から駅構内を見わたした時のことは忘れられない)この後、ステンドグラス作家として、不動の地位を築くことになるとは知るよしもなかった。

シカゴ美術館で、水彩画の教師をしながら新しい絵画への道を極めようと太平洋をこえた三知だったが、予想以上の困難が待ち受けていた。生活の糧となる日本画教室にひとりの生徒も現われなかったのである。渡米してからの三年間は様ざまな仕事をしながら活路を求めて耐える日々が続く。この時期が最も辛酸をなめ、毎日のパンにもこと欠いたという。


 
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郷土神奈川第42号論文
日本のステンドグラス史
神奈川のステンドグラス

序にかえて

第一章
草創期のステンドグラス
岩城瀧次郎
宇野澤辰雄
ベックマン貸費生
宇野澤辰雄の帰国
渡辺千秋邸のステンドグラス
我国初のステンドグラス工場

第二章
成熟期のステンドグラス
小川三知
小川三知のアメリカ留学
セントルイス大博覧会
帰国後の小川三知とその終焉

第三章
終息期のステンドグラス

あとがき

神奈川県のステンドグラス

 

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