明治37年は三知にとって大転換の年になった。セントルイス大博覧会が開催され、三知に仕事や人を運んできたのである。日本政府工芸館の仕事についた三知は、展示ブースで活花をしたりお茶をたてたりしてかいがいしく働く。その姿が静岡県の漆器業者の目にとまった。同じ県の出という偶然も幸いして、農商務省の海外実業練習生の推薦を受けられることになった。また、シカゴで日本の民話や神話が英訳で出版されることを知った三知は、是非自分にと申しでる。装幀やさし絵はすでに経験済みである。民話のさし絵は、三知にとって楽しい仕事であったに違いない。絵本は全80頁で、その殆んどの頁に三知の絵が描かれている。
JAPANESE FAIRY TALES
・THE WONDERFUL TEAKETTLE (ぶんぶく茶釜)
・THE WOOD-CUTTER'S SAKE (養老の滝)
・THE MIRROR OF MATSUYAMA (松山鏡)
・THE STOLEN CHARM (盗まれたお札)
・URASHIMA (浦島太郎)
・THE TONGUE-CUT SPARROW (舌切り雀)
・SHIPPEITARO (しっぺい太郎)
RETOLD BY TERESA PEIRCE WILLISTON
ILLUSTRATED BY 小川三知(SANCHI OGAWA)
そして折から、博覧会視察の為に派遣されてきた東京美術学校助教授桜岡三四郎との巡り合わせが三知の運命を変えることになった。桜岡はシンシナチーのルックウッド製陶所に二十年間も在籍している白山谷喜太郎を訪ねるよう助言する。桜岡は三知の将来のことを考え新しい道への方向を示したのである。
三知は早速シンシナチーの白山谷のもとを訪れ、白山谷喜太郎が紹介した「アースチック・グラス・ペインチング会社」で見習生になることができた。
ステンドグラスに初めて接した三知は、一から積み重ねていく。以後日本に帰国するまでの七年間、三知は、海外実業練習生としてアメリカ各地を回り、漆器図案の調査もこなしながらステンドグラスの修業も重ねてゆく。アメリカでの三知の足跡を調べるとその行動範囲のひろさに圧倒される。滞在した州は八州に及び、勤めた会社は大きな会社から小さな工房まで含めると十社以上にのぼる。言葉を克服し困難に屈せず、ユニオンにも入れなかった東洋の日本人が刻苦勉励して学びとったアメリカン系ステンドグラスの技法の数かず。こうした三知の存在はすでに日本にも伝わっていた。
近代建築を建て始めた日本の建築家たちは、三知の一日も早い帰国を待ち望んでいた。
|