明治44年(1911)11月3日、長期にわたった米国留学を終え横浜港に下り立った人がいた。小川三知(44歳)である。
小川三知は慶応3年5月29日、静岡市呉服町5丁目に藩医小川清斎の次男として生れた。清斎は静岡市安西の豪商、築地半左衛門の娘浅香と結婚、浅香が一児漣平をもうけて亡くなると妹伊佐と再婚する。これが三知たち六人姉弟(つる子、剣三郎、三紀、三寿、三善)の母である。将来を嘱望された長男漣平が中村正直の私塾「同人社」在学中若くして亡くなると、父清斎の期待は一心に三知に向けられた。
三知は静岡濠頭小学校、静岡中学校卒業後上京明治16年、独逸学協会学校予備科に入学する(第一高等中学校入学生の為の養成所)。
同20年9月、第一高等中学校独豫科(後の旧制一校・現東京大学)三級に入学、同窓には藤波鑑、練本節高、下瀬謙太郎、川島慶治、石川貞吉、中村進午、松岡辨らがいる。医者への道を進むべく三知は懸命に勉学に励むが、幼いころから好きであった絵画への情熱がふくらんでいった。束京美術学校創設を知るや、抑えきれぬ思いは頂点に達する。三知は父清斎に絵の勉強をしたいと懇願するが清斎は許さなかった。諦めきれない三知は懇願を続け家督を弟剣三郎に譲ることを条件に、明治22年9月東京美術学校日本画科へ入学を果した。
美術学校入学後の小川三知は、橋本雅邦の謦咳に接し人として深く強く影響を受けることになる。好きな絵画への道を喜びと共に過す日々の中で、三知は山水を研究しながら雪舟の四季山水図の模写に打ち込む学生生活を送る(山水長巻…模写実物が残っている)。古画臨模は美術学校の重要な授業の一つであった。
同27年卒業、図画教師として最初の赴任地山梨県尋常中学校で教鞭をとる。
次いで神戸市兵庫県師範学校へ転任する。この間29年に地理学者小川琢治著「台湾諸島誌」、30年に「日本本島横断地質図」の装幀も手がけた。日本本島横断地質図は巴里万博に出品されている。このころの三知は、貧乏旅行と称してたびたび小旅行を試みている。日記帳には風景は無論のこと、土地の風俗や道具等をこまめにスケッチし気付いたことをメモしている。同31年美術学校事件が世間を賑わせ、この事がきっかけになって、三知は外国に目を向けることになってゆく。
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