日本人の手によるステンドグラス製作は明治27年竣工の東京府庁舎が最初のものである。が国産色硝子を使って製作された最初の作品は岩城瀧次郎が手がけた「渡辺千秋邸明治38年」である。この作品は宇野澤辰雄との合作ではないかとも言われている。
昭和36年解体移築の時、ステンドグラス修復を手がけた森勇三氏は「あれは古いめずらしいガラスで、グリン色と黒のひだのついたものがありました。破片のいくつかを岩城さんに届けました。瀧次郎さんがこさえた硝子と思いましたから…」と話された。森勇三は宇野澤ステンドグラス製作所のはえぬきでステンドグラスの職人の神様といわれた人である。全国各地に残るステンドグラスの修復に大きくかかわった。森勇三氏から届けられた硝子について「この古い硝子は岩城家に残る唐獅子と同じものです」と岩城英達氏も証言されている。(筆者は森勇三氏、岩城英達氏両方からこの話を聞いている)
時代の流れはステンドグラス需要を求めなくなった。明治32年辰雄は国産ポンプの製造を目指し、宇野澤組鐵工所を設立(東京市麻布区新堀町7番地)する。数人の友人たちと一緒に始めたところからその気持ちを表すために組という文字を入れたといわれる。以後辰雄は精力を傾けてポンプ製造に打ち込む。同40年には東京勧業博覧会に各種ポンプを出品、一等賞を受賞している。ポンプの開発に情熱を傾け機械メーカーとして着実な地盤を築くために働き続けた宇野澤辰雄は明治44年6月23日、鎌倉の別邸でその一途な生涯を閉じた。小川三知が帰国する5ヶ月前の若い死であった。
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