明治44年11月3日、渡米した時とはまるで違う上等船客として船旅を楽しみ横浜港に下り立った三知、満を持しての帰国であった。
旅装を解くまも惜しんで活動を始める。その日の内に中條精一郎事務所に帰国の挨拶を済せ、慶応大学図書館の大ステンドグラス製作のためのアトリエを建てる準備を始める。11月23日にはバラック建の工房を完成させ(代々木山谷110=現在の渋谷区代々木駅前辺り)ステンドグラス製作を始める。帰朝第一作目の慶応大学図書館のステンドグラスの大半がこの小さなバラック建の工房から生みだされた。大正二年二月、板谷波山の誘いを受けて北豊島郡滝野川村大字田端字東台通490番地に移転「小川スタジオ」とよばれたこの工房で、三知は数えきれぬ程の名作を世に送りだしてゆく。
三知の帰国はすでに開業していた宇野澤ステンドグラス製作所を大いに刺激する。三知の工房開設を知るや、大正元年十一月、別府七郎、木内真太郎があらたに「宇野澤組ステンドグラス製作所」を設立したことでもわかる。別府七郎、木内真太郎が連名で出した当時の開業広告を読むと気合の入った様子が充分伝わってくる。
洋風建築の誕生から四十数年、建築家たちは伝統的な和風建築の中に、擬洋風や和洋折衷を取り入れた新しい建物を全国に広めていった。こうした背景の中で、ステンドグラスの需要はふえ技術的にも芸術的にも高まって見事に花開いてゆく。大正初期から昭和初期に至るわずか二十年ほどの間に、素晴しい作品が次つぎに製作され、日本全国の建物を飾った。神奈川県もその例外ではない。
帰国してから昭和3年に没するまで、三知は働いて働いて間を縫うように旅をし、硝子発注、デザイン、交渉、家族を労わり弟子たちを教育し経営面のあれこれその全てをひとりでこなしていった。メモ魔の三知が日記も付けられぬほど、仕事に忙殺されていたことが残された空白の頁から浮かび上がってくる。
昭和二年金剛山電鉄社長久米民之助の依頼により、体の不調をおして、朝鮮金剛山のスケッチにおもむく。天女が舞い降りるといわれる美しい山を三知はスケッチして戻りあたためた構想をステンドグラスに生そうと思った矢先に病いに倒れる。病床にあっても、金剛山の仕事のことは頭を離れず、生代夫人をずいぶんハラハラさせたという。
昭和3年10月24日、小川三知は真筆な生涯を全うして息をひきとった。三知の工房の欄間には同年生れの宇野澤辰雄の写真が飾られ大切にされていたという。
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