瑠璃、玻璃、ギヤマン、ビードロ、かつて硝子はこう呼ばれ、宝石と並び称されるほど高価で貴重なものであった。安政6年(1859)6月、ロシア、フランス、イギリス、オランダ、アメリカ5カ国との自由貿易の許可が下りた神奈川、長崎、函館が開港されると、大波が押し寄せたように様ざまなものが我国にもたらされた。止めようとしても止められない波は速度をともない点から線へ、線から面へと日本中に広まっていった。人々が初めて食したアイスクリームの甘さ、泡立つ石鹸、自転車、電燈、近代水道、下水道、鉄の橋、公園、クリーニング等々数え上げたらきりがない。色、香り、音が入り混じった港の町の賑わいは大変なものであった。
色硝子を鉛線で繋いで制作されるステンドグラスは近代建築と寄り添うようにして日本に入ってきた。石造りの建物の採光及び照明を補う目的で使われた「草創期のステンドグラス」、近代建築が最も盛んな時代に花開いた「成熟期のステンドグラス」、建築様式の変化や、ざわざわした暗い足音が忍び寄ってきた頃の「終息期のステンドグラス」。明治中期から昭和中期までを大別すると以上のように三つの流れがある。年数にしたら五十数年の期間であり短いといえばあまりに短い。
わずかな期間に全国に嵌入された大小のステンドグラスは、関東大震災で失われ、太平洋戦争で壊滅的な打撃を受け、戦後の混乱期を経て高度成長経済の名のもとに、正確な記録もされぬまま、数多くの建築物と運命を共にし姿を消した。がこうしたいくつもの波をかぶりながらも辛うじて生き残った建物の中に、ステンドグラスが静かに光を放っている。そして現在(いま)また少しずつではあるが、近代建築の価値が見直され建物の保存と共に、ステンドグラスも修復される幸せな例も出てきている。「再生期のステンドグラス」と位置づけたい。しかしながら、取り壊しを免れたステンドグラスの多くは厚く梱包され、倉庫の中に眠らされたり、人工光の中に閉じ込められたり、人目につかぬ場所に嵌入されたり、行方がわからなくなってしまった例も少なくない。
ステンドグラスは自然光を透過させてこそ、本来の美しさで輝く。朝陽、夕陽、薄陽、雨、風、そして何よりも、人びとの眼やざわめきが、ステンドグラスに風格を与え、より美しくさせる。
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