ステンドグラスの歴史研究家 田辺千代 Study  [研究レポート]  

ステンドグラスの歴史研究家 田辺千代

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郷土神奈川第42号論文
日本のステンドグラス史
神奈川のステンドグラス

小田原史談  第193号   2003年(平成15年)3月
小田原駅のステンドグラスなど

神奈川新聞 ぽぷり欄
ステンドグラス記事抜粋
 
<論文>

「日本のステンドグラス史
 神奈川のステンドグラス」

田辺千代

「郷土神奈川 第42号」 22〜41ページ
 神奈川県立図書館 平成16年3月発行 

 
 
第一章 草創期のステンドグラス (1894〜1910)
◎岩城瀧次郎と宇野澤辰雄が残したもの
ベックマン貸費生 宇野澤辰雄

明治19年(1886)日本政府は臨時建築局を組織、きたるべき国会開設に備えて議院建築(国会議事堂)建設のため、外務次官青木周蔵、建築家松ケ崎万長の進言により二人のドイツ人を招聘した。

 Wilhelem・Bockmann (1832〜1902)と、Hermann・Ende(1829〜1907)である。

同年4月27日来日したベックマンは時をかわさず諸官省の集中計画を立案、同月ベックマンを顧問として内閣直属の臨時建築局が設置される。ベックマンは建築の進行を円滑にするには日本人子弟を教育することが早道と考え「ベックマン貸費留学生」を募ることを提案、
自から資金援助を約束して7月いったん帰国した。

「明治19年11月5日付毎日新聞雑報欄」
 『さきに我が政府への招聴の建築師独逸国人ボックマン氏は、東京職工学校機械科生徒の内、学術品操優秀の者若干名に自やら費用を給し独逸国に留学し建築事業を実証せしめんと欲し過般帰国の節、該校生徒機械科卒業生、静岡県平民山田信介、同科卒業生(目下専攻科修業中)東京府士族加瀬正太郎、同科三年生広島県士族山本辰雄、同科二
年生同県士族S新平の四氏を親しく選擢指名せしを以って頃日該校に於いては右四名に便宜退校該国へ渡航すべき旨を訓示セリ。(原文のまま)』

「明治19年11月16日付毎日新聞特別広告」
 『生等今十六日午前八時十五分新橋発ノ汽車ニテ独逸国へ発程仕候勿卒之際御暇乞ノ礼ヲ欠ク此段遠近唇知ノ諸君二謝告ス
    十九年十一月十六日 妻木頼黄
                  渡辺 譲
                  河合浩蔵(原文のまま)』

こうして、日本のステンドグラスの創始者山本辰雄(後の宇野澤辰雄)はベックマン貸費留学生のひとりとして、横浜港から貨客船ステチン号に乗船、ドイツに向った。妻木頼黄、渡辺譲、河合浩蔵の他に浅野セメントから浅野喜三郎、坂内冬蔵、深谷煉瓦から大高庄衛門、美術家内藤陽三、建具職清水米吉、政府派遣の職工八名(志村今次郎、佐々木林蔵、鎗田作造、S専助、吉沢銀次郎、市川亀吉、篠崎源治郎、村上治郎吉)等総勢21名であった。

辰雄たち四人のベックマン貸費生及び政府から職人として派遣された人たちの中から、近代建築の発展に中堅技術者として活躍する人たちが輩出する。鎗田作造、清水米吉
等は建築家からむ同輩からも一目おかれるはどの技量の持ち主であったという話が伝っている。

『明治工業史』によると、留学生たちは各自指定された工場で12時間労働の後、夜学に通って語学の基礎から勉学に励んでいる。体力的に、遠くドイツ人に及ばなかった日本人留学生の中には体をこわす者がままあり、関係者は労働時間短縮の願いをたびたび交渉したとある。言葉の壁、食物、気候風土ベルリンの冬の寒さをどう乗り越えていったのだろうか。4年の年月を「日本国」という重みを一心に背負って勉学に励んだ若者たちの中から痛ましい犠牲者もでた。帰国前の競技会で銅牌を受賞、これからという時に命を失った若者がいた。

プロシヤの宮殿建築にかかわった内藤陽三である。石膏彫刻の修業をおさめ、さあ日本に帰るのだという帰国途中の船の中で病状が悪化、日本の土を踏むことがかなわなかっ
た。

『伯林留学者の賞牌 過般独国伯林府に開会したる第四回子弟競技会には同府留学の日本書生も多く出品せし由なるが其内賞牌賞状を得さるもの六名あり其人名左記如しと

 銀牌 東京府士族 加瀬正太郎 東京職工学校卒業生
                      当時鉄工修業
  同 平民 鎗田作造 建築局派遣生
                      大工職修行中
 銅牌 東京府士族 内藤陽三  元工部美術学校卒業生
                      当時石膏彫刻衛修業
 賞状 静岡県平民 山田信介 東京職業学校卒業生
                      当時銅板亜鉛板修業
    広島県士族 山本辰雄 東京職工学校葛生徒
                    当時硝子工修業

    東京府平民 吉津銀次郎 建築局派遣生
                      銅板亜鉛板修行中
            (明治11年7月14日付 時事新報抜粋)』

山本辰雄が修業に励んだ場所は、ベルリン(旧東ベルリン)のルイ・ウェストファル工場(Louis・Westphal・Studio)である。ここで丸三年に渡りステンドグラス技法及びエッチングを学んだ。

 
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日本のステンドグラス史
神奈川のステンドグラス

序にかえて

第一章
草創期のステンドグラス
岩城瀧次郎
宇野澤辰雄
ベックマン貸費生
宇野澤辰雄の帰国
渡辺千秋邸のステンドグラス
我国初のステンドグラス工場

第二章
成熟期のステンドグラス
小川三知
小川三知のアメリカ留学
セントルイス大博覧会
帰国後の小川三知とその終焉

第三章
終息期のステンドグラス

あとがき

神奈川県のステンドグラス

 

 

 

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