明治39年(1906)辰雄の養父宇野澤辰美によって東京市芝区新銭座町4番地に本格的なステンドグラス工場が設立された。開設メンバーは別府七郎、木内真太郎、大立目重義等である。
初代場主宇野澤辰美は、辰雄の父山本晴二と同じ藩の出で日本掖済会設立に尽力、日本郵船「博愛丸」の初代機関長を務めた。進取の気性に富み船を下りてから神田で洋食店を開いたこともあったという。職人や子僧さんたちから”おじいさん″と慕われるほどの円満な人柄であった。
明治39年は日露戦争の戦勝気分に湧き立った年でもあり、経済活動も活発になって再びステンドグラスの需要が求められた時期でもあった。辰雄の持ち帰ったステンドグラスの技法はこうして引き継がれ「宇野澤ステンドグラス製作所」(…筆者)として、昭和20年の敗戦の年まで続いた。その伝統、技法、精神は、宇野津で仕事を学んだ人たちによってバトンが渡され今に生きている。
辰雄の興した「宇野澤組鐵工所」も創業百年をこえ機械メーカーとして現在も幅広い事業活動を展開している。
|