昭和4年に端を発した世界恐慌はたちまち日本を襲い同5年には日本恐慌が始まった。世情には暗い事件が連鎖しておこり、この年の自殺者は13,942人にものぼっ
た。同六年満州事変、同7年五・一五事件、同8年国際連盟から脱退、同十一年二・二六事件、同十二年には日中戦争が始まり重苦しい空気は一層濃さを増していった。
最後の輝きが灯るようにステンドグラスは製作され続ける。この時期で見事な作品は、昭和5年開館の国立科学博物館と同11年竣工の国会議事堂である。国立科学博物館は三知亡き後、三知の起した図案、彩色された原寸大の絵、刻まれた硝子を生代夫人と工房のスタッフが精魂をかたむけて完成させたものである。
国会議事堂は規模からいうと、日本最大のもので、東京の名立たる工房が分担して製作に当った。貴族院(現参議院)、議会場天井、便殿、階段両わきを宇野澤ステンドグラス製作所が受け持った。衆議院は別府ステンドグラス製作所が、議員階段は東京玲光社の三崎彌三郎が担当した。
国会議事堂が竣工した昭和11年前後をさかいに、ステンドグラスの需要は急速におちてゆく。やがて、硝子と硝子をつなぐ鉛線は鉄砲の玉に変る時がやってくる。日本のステンドグラスは終息の時を迎えねばならなかった。
それでも日本の各地で、ステンドグラスは入れられた。昭和10年〜12年頃の作品は、硝子の色やデザインも、成熟期のものと比較すると、こんなに違うものかと、あらためて、時代背景と無縁ではないステンドグラスの姿が見えてくる。
特筆すべきは、昭和17年、葉山町一色に地元の名もない大工さんが依頼者にたのまれて、隠れるようにして建てたという小さな洋館と、ステンドグラスである。
民家から立ちのぼる煙、海へ続く道にヒルガオが咲き、静かな海に帆船、そして人物の後姿が小さくある。後姿の人は座って何を考えていたのだろうか。穏やかな日常を望んでいたに相違ない。素朴で平凡な作品だが神奈川県にこのようなステンドグラスが残されていたことを大変嬉しく思う。
全国各地を時間をかけて調べ歩いたなら、まだまだ沢山の作品にめぐり合うことができるかも知れない。
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